昭和43年05月10日 朝の御理解



 信心の心得のなかに、「疑いをさりて信心して見よみかげは和賀心にあり」みかげは霊験、わが心は我心(われこころ)われがですね。疑いをされて信心して見よ、みかげはわがこころにあり。私共は何を信じ、何をお疑い、何をお疑い何を信じておるか。疑っておりませんと言う様にあっても、霊験はわがこころというのはここの場合、疑っておるかいないかと言う心にあると仰るのですね、自分の心は。はぁもう神様が今日は疑いよる。神様の働きをこの頃は信じれる様になりましたと。
 例えば言うても、霊験が立っていない、霊験が現れていないとするなら、やはりまだ疑いをもっておると言う事を信じなければなりません。その事が解らなければなりません。昨日の朝の御理解にいよいよ自分の信心を、確かなものにして行く為にという御理解でしたですね。自分の信心をいよいよ確かなものにして行く為に、言うならばそこの所をひとつ確かめ確かめしていくところの。信心が必要だと思いますね。今では。
 昨日吉井の熊谷さんがここでお届けされる中に、先日から酒を飲んで、謝恩祭がございました。それがちょっと日にちが遅れましたけれども。その時にいろいろ御用をして下さった方達集まって。そん時の反省会を開かして貰いました。その反省会の中でこう言う様な話が出ましたと言うてお話が。波多野さんがこういう事を言われる。私共合楽におかげ頂く様になりまして、昨日椛目合楽を通して18年間、が親先生がああして日夜お説き下さる御教えをどれ程自分のものにしておるかということですけれども。
どういうものが自分のものになっておるだろうか。と言う事がまぁテーマだったらしいですね。私しそれを聞か褪せて頂いてから、はぁこれは素晴らしい。これは信心のお互いの信心をいよいよ確かのものにしていくために。いよいよここんところをひとつ本気で考えて見らなければならないと思ったんです。自分のものになっているもの、ということです。そりゃ一年間でもかまん、半年間でもかまわんですよね。
 ここで私は18年間修業させて頂いておるわけですが。果してその18年間の中にです。自分のものになっているものと言うのは、よくよく考えると無いのに驚きます。何があなたのものになっておるのか、如何に信心の稽古をしておると言うても、信心はしておってもその稽古になっていないかと言う事が分る。ここには信心の稽古に来る所、おかげはわが家で受けよと、成程おかげは受けて来たけれども。
 信心の稽古に通うとる様であるけれども、本気で稽古をしていない証拠に、自分のものになっているものと言うたら、もう実にお恥ずかしい次第ですけれども、あれもこれもがただ分っただけ、愕然として居ると言う事です。皆さんどうでしょう。いやこれだけは自分のものになっておると言うものがです、本当になからなければいけません。例えば何おけいこ事でも同じですけれども。まぁ例えて申しますならですね、まぁ三味線なら三味線の稽古を致しましょうか。長唄なら長唄の稽古と致しましょうか。
 まぁ長唄習い事習う時に第一に梅に春なら、梅に春を習います。そして段々大物に例えば勧進帳と言った様な、あぁいう大物になって行く訳なんですけれども。段々一年経ち2年経ち3年5年経って行くうちにですね。これとこれは自分のものになったと言う事になるんですよ。それは本気でそれを稽古するから。と言う様にですよ、信心がもこれとこれだけは自分のものになったと言うなものが出来ていか無かったらやっぱりおかしいんです。けどもそこんところがね。
 ぼけておると言う事はいかに本気で稽古しよらんかと言う事が分ります。どうでしょうか、梅に春ひとつでもと言った様なものが自分のものになっておるでしょうか。自問自答してご覧なさい。昨日もこの事をその後に参ってきた方にお話ししました。本当に考えてみると、なんも自分のものになっておりませんけれども、最近これだけは自分のものになっていると思います事は、もう何時でも神様が見てがざる聞いてござると言う事でございます。あなたは大変な事がわかった。
 わかったというか大変な事を自分のものにされましたね。と言うて申しましたけれども。果してですね、本当に神様は聞いてござる。神様はみてござると言う事が、本当に自分のものになっておるとしたら大した事なんですよ。それを厳密に検討いたしますと、一切はそうではない事に気付かれるだろうと私は思いますね。ここでまぁ執心もしとります。難はみかげと確かに皆さん、合楽に縁を頂いておられる人達は、難はみかげである事は体験して来られましたね。
 あぁ言う難着ぎのおかげでこういう信心のおかげと、こういうおかげを頂いたと言う事をわかってきたんですけども。果して本当に自分のものになっておるかと厳密に言うとですね。次の難を受けた時はやっぱり難と受けておるじゃないか。また困ったことと思うとるじゃないか。それに対して不平不足を言うたり思うたりしておるじゃないか。そんならまぁだそれは自分のものになっておると言えないのです。成り行きを大切にこれだけは徹底してこれは自分のものになったと。
 けれども例えばそのような考え方でですね。思うて見ますと、本当に目の荒いものであって、ほんとには自分のものにもなっていない事に気が付く。日頃は自分の御教えを頂き、そこんところを大事にしていかじゃこて。そこを大事にして行くのが成り行きを大事にする事よ、と言われて見てはっと気が付くぐらいの事である。はぁ困ったことじゃないじゃないの、それはあんたおかげよと。
 言われてはっと気が付いてその位なことでは、何が自分のものになっておるか、これはいよいよひとつこれからもですね。自分のものになっているというものを一つでも二つでもいよいよほんとなものに、確かめ確かめして行かなければいけませんですね。今日は疑いをさりて信心して見よ、みかげはわが心にありと言う、ここで言うそのみかげと言うのは霊験と書いてある。和賀心とは和らぎ喜ぶ心とは書いてはない。我の心と書いてある。が(我)ですねが。どこを信じ。
 私しは神様を信じとりますと言うのは、本当言うたらあまりにも大きな、あまりにもまた漠然として、そこでですね。金光様のご信心をさして頂くならね。何を先ずわかり、何を先ず信じさせて頂く稽古をしなければならないかというとですね。それを最近は金光大神への帰依と言う事を申します。いわゆる取次ぎ者への帰依なんです。先生への帰依。いわゆるお取次ぎを願うそのを取次ぎ者に対するところの帰依なんです。ここで皆さんがそこんところは、まぁ本当は段々稽古が出来て来ているようでですね。
 親先生の仰る通りにしておけば間違いないですよと。もうここに3年も通うてくる人ならば先ず是を言いますね。みんな。もう自分なわがいいでちゃ親先生の言いなさる通りにしておればいいんですが。と例えばこのう第3者に立った場合はですね。それをそのう人にもそれだけの事を言える。親先生が言いよんしゃった。なぁらそれでそうげんしときゃ間違いないですがち。言うておる訳ですけれども。果して自分の事になって来るとなかなかですね。私しゃそのうなるほど神様を信じ申し上げると言う。
またあれを信じ是を信じと言うけれどもですね。先ず何と言うてもお道の信心を頂くなら、先ず取次ぎ者への帰依です。疑いを去らなければならんのがです、親先生の仰った事に対しては、もう全然疑いを持たない。それを昔の方達はですね、先生が黒のものを白と仰ったら、はぁこれは白でございますなと信じれれるおかげを頂いたら、それは白になると言うとられます。金光様の御信心はここです。これはもういわゆる金光様の御信心の独壇場でしょうね。取次者と言うのも金光教だけでしょう。
 取次ぎ者への帰依。取次ぎ者が黒のものを白と言うても、はっ白でございますかと言うて本気で白と思うてそれを見よると白になる。こういうおかげになる。と言われておる程に確かなものなんです。先生はあげん言いなさるけど言うたら既にそこに疑っておる。先ず疑いをさらなければならんのは親先生の言われる事。ましてここではですね、皆さんが朝に、夕に頂かれる御教えと言うもの。親先生の此処で教えて下さる、教えて下さるその事を信じる。
その事には疑いをはさむ余地がない。今日は先生はこう言う御理解を下さった。だからその御理解に徹して見ることによってですね。始めて先生の言われることに間違いがないなぁという、体験を積んで行くと言う事。そこの所がですね、どうもおぼろげになって来るのです。どういうところからそれがおぼろげになってくるであろうか。薄いものになって行くだろうか。確かなものになって行かないのだろうか。神は平等におかげをさずけると仰る。氏子の受け物が悪いとおかげが漏れる。
 神様は平等におかげを下さる。平等と言うのは、へいとうと書いてある、対等ね。神様は一様におかげを下さるのであるけれども、こちらの受け物の心と心がそのおかげが大になったり少になったり、又は皆無になったりするわけ。無くなったりするわけ。私は取りわけ今日はですね。平等と言う事について頂かなければならんと思うのです。あれは福沢諭吉でしたかね。「天は人の上にひとを創らず」ですかなんかそう言う名言がございますね。いわゆるそれは平等と言う事なんです。
 人はみな平等と言う事、当時は、士、農、工、商、ですか。侍と百姓と言うたらこんなに違う。商人と言うたらまた格が落ちる。と言う風に人間に段を着けておった。当時福沢諭吉はそういう、人間は上も無ければ下も無い皆んな同じだと。言う風な説をまぁいわゆる力説致しておりますね。やはりそこなん平等なんです。ところがそのう私達の心の中にこう言う様な考え方がありますですね。強きをくじき弱きを助け。そういう心がこのうお互いの心の中にあるようです。でなかったらそれと反対です。
 強きにはペコペコ弱いものはいじめ。そういう大体二種類あるようですね。人間大体みなさんどうでしょうか、もうその偉かっと言うたり、あれはそのまぁ偉いなんて言うたらもう、なんかそげんとをこき下ろして見たい様な気持ちがする。特に私しはこう私自は身強い、もう偉い先生と言うたらいっちょん偉くなかごと言うてから。いわゆるその強きをくじく、いわゆるその播隋院長兵衛のごたるね。強きをくじき弱きを助ける。そういう心がお互いの心の中にはある。
 もしそれが無いなら是と反対、強きにはペコペコして弱いものいじめ。弱い者いじめもう是は一切いけませんね。もうこれではおかげは受けられません。そしてですその喜ぶと言うところが非常に少ない、平等に見るという人が、その二つが非常にはっきりしている。ですから取り合えずここんところををですね。私は平等に見ると言う、これはほんと言うたら人だけじゃないのですよ。事柄、物、金銭、全て同じなんです。これも昔の格言でしょうかね。
 一銭を笑う人は一銭に泣くと言った様な諺があります。これは金銭の事です。千円の金は大変尊ぶけれども、一銭の金は尊ばないと言う。今日も、今日私はそういう事。千円が大事なら一銭も矢張り大事なのだ。お金その物の値打ちと言うのはやはり同じなんだ。一銭がたまって千円になっておるのだ。同じだ。いま今どきの言葉で言うなら百円二百円は何ぁんとも思わんけれども、千円二千円になるともう惜しか。そういう事ではなくて千円でも二千円でも、一銭でも二銭でも同じだと言う見方なんです。
 そういういわゆる見方と言うより頂き方なんです。そこから私しはですね。いわゆる一銭で泣くと言われる、泣かん で済むおかげが受けられると思うです。ところが私共じゃそれを掲げておる所に、例えばこれは甘木の初代の親先生の御心を知ると言う事は大変難しい事ですけども。そう言うところに精進なさったんだと思う事はです。当時まぁ一円と言う金は大したお金じゃありました。その例えば神様の前に百円を使いよるときには、自分の事に一円を使うぐらい気持ちでお使いになったと言う事でしょうか。
 自分の金を自分の私用の事に使う一円は、その百円の金を使う様にして使われたと言う事である。それはですね、本当言うたら恐らく平等のお考えであったから、それをそう言う風に表現してあったと私はおもうですね。けれどもそういう私しは精進が必要であると。神様の事には一円使うでも惜しか。自分の事に使う百円ならひとうつも惜しゅうなか。自分の好きなもんかう時にいっちょん惜しゅなか、けれども神様にお供えするにゃ惜しか。相互のために使うのは惜みがつく。
 これではね今日私が言う平等と言う事になって来ないのです。これは、物、人、金、事柄でもそうです、ちょっとした心配になる位な事ならばお取次ぎを頂いてから安心。けれどもそれが少うし難しい問題になると、お取次ぎを頂いても先生はあぁ仰ったけれどもと言うて心配する。そりゃもう当然といやぁ当然。けどもですね例えば一の事が信じられるならば、百の事も信じられると言う事が、そこんところの稽古をいや確かなものにして行かなければいけないです。
一万円二万円の金銭の御繰り合わせなら、お取次ぎを頂いておかげを頂くとか。確信持っておかげを頂く、ところがそれがさぁ5百万円だ一千万円だと言う事になてくると、神様はおかげ頂ききらっしゃるじゃろうかという風に、まぁ言うならば思うんじゃないでしょうかね。その思う心がもう既におかげを受けられん事になるのですよ。平等の考え方じゃないでしょう。そこで取次ぎ者も言と言うですかね。言葉と言うものをです。ならここで頂く御教えと言うものを私共は本気でそれを、疑いを晴らせてもらう。
 信じさせてもらえる稽古をしなければいけません。私しは金光様の御信心を、何をどこを信ずるかと言うたらですね。先ず何と言うても取次ぎ者の言を信ずると言う事から、先ずいわゆる自分のものにして行かなければいけない。そりゃ取次ぎ者がですね、若先生であろうが、修行生の事であろうが、ね。言うなら誰がここに座っておろうがです。それを金光大神の言葉として頂けれる心なんです。そこへお取次ぎを頂いて起きてきたことは良い悪いにつけて皆良いと言う事になって来るのである。
 ですからここで私しがこう朝晩にお届けさせて頂く事を、本気でそれを。今日は先生こういう事を中心にお話なさったから、この事を今日一日掛け守りにしてと言うてそれを行じさせて貰うところにです、私しは先生の言われることを信じなければおられない、私はおかげが頂けて来る様になると思うのですよ。ですからそこんところをです、皆さんがですね。軽う見る事なくそれを頂かなけねばならん。
 そしてそこに大金を頂いて行かなければならん。そこに先ずお取次ぎを頂いての事ならば、疑いの挟む余地はないと言う所まで、それを自分のものにして行かなければならん。と言う事。同時に今日は特にとりわけ、私しは人を平等に見ると言う事。これは福沢諭吉ならずとも、確かに教祖が仰られる様に、神、人は皆神の子、神の氏子としての頂き方でなんです、人の子ではない神の子として、神の氏子としての見方なんです。
 して見ると例えばこりゃ親であろうが兄弟であろうが、主人であろうが従業員であろうがですね。年を取って居ろうが若かろうがですおんなじなんです。例えて言うならば。私のところに久保山繁さんが、ま年が20くらい違いますかも知れん。けれどもそれはね。20年間私が早く生まれたと言うだけなんです。どこに値打が違う20年間早く生まれたと言うだけじゃないか。と言う様な見方考え方を持ってですね。
 とりわけ今日は人や、物やら、金やらも同し事なんですよ。けどとりわけ今日はですね。ここんとこ。教祖が仰る人を軽う見なと言う様な、人を平等な見方。神の氏子としての取り扱い。そういう私共は、ところが今まで私共かってね。なら軽う見てきた人が、又は重く見てきた人がそういうところです甘木の親先生じゃないけれども、一円の金を自分が使う時には、100円の金を使うごたる気持ちでと言った様な、まぁ一つの考え方、方法があると思うのですね。
 とりわけそこのところを大事にさしてもらってですね。おかげを頂いてもらわにゃならんと思うのです。疑いをさりて信心して見よみかげは和賀心にありと言うこの信心の心得です。今日はその疑いと言う事をね。お取次ぎを頂くその取次ぎ者に。又は取次ぎ者が言われるそれが教話である場合も、お取次ぎを願ってそれに対するお答えに対しましても。そこんところを私しはあのう信じると言うのはそこんところに焦点を置いて信じさせて頂く稽古をさしてもらわなきゃならない。
 同時にそこから出て来る所のお話しを。今日は私しが平等と言う事に付いて皆さんに聞いてもらいましたですね。全ての事ですけどもとりわけ人間の事に付きましての考え方見方、頂き方をです平等な頂き方なところに焦点を置いて、今日信心の稽古をさして頂いた訳ですね。お互いがこうして日々信心の稽古をさして頂いておる訳で、自分のものになっているものと、こう開き直って聞かれる、開き直って答えられる。そういうものは何があるか。実を言うとあれも上がってない。
 これも上がってないどれも中途半端と言う様な事じゃなくて。一つ一つをです自分のものにして行けれる私は精進、努力こそが大事だと。もうお取次ぎを頂くと言う事がどんなに有り難い事か。お取次ぎの先生の仰った事をです、信じさせて頂ける。これだけは私のものなっておると言う様なですね、おかげを頂く事が先ず金光教の信心の、先ず手始めだと言う風に思うんですよね。
   どうぞ。